LOGIN朝が来た。
それだけのことに、セレスティアは少し驚いた。 昨夜、眠った記憶がほとんどない。 机の上には、ミレイユの手紙が置かれている。 開封はしていない。 封蝋もそのまま。 ただ、枕元に置く勇気はなく、かといって引き出しの中へ隠すこともできず、結局、机の中央に置いたまま夜を越した。 目を覚まして最初に見たのが、親友だった女の筆跡である。 目覚めとしては最低だった。 「……おはよう、ミレイユ」 言ってから、自分で嫌になる。 死者へ挨拶をするほど寂しい女になったつもりはない。 いや、違う。 寂しい女ではあった。 ただ、それを自分で認めるのが癪だった。 窓の外では、公爵邸の庭師たちがすでに仕事を始めている。 白い花が多い。 昨夜も思ったが、この屋敷には白が多すぎる。 白い壁。 白い花。 白い石畳。 清潔で、上品で、どこか息苦しい。 ミレイユなら、三日で赤い薔薇を植え始めただろう。 そしてリュシアンと喧嘩になったに違いない。 『お兄様の屋敷は、お墓みたいでつまらないわ』 そんな声が聞こえた気がして、セレスティアは眉間を押さえた。 思い出は、本人の許可なく勝手に蘇る。 厄介だ。 身支度を終え、廊下に出ると、ちょうどリュシアンが東棟のほうから歩いてきた。 昨夜と同じ黒い服ではない。 濃紺の上着に着替えている。 しかし顔色は、昨夜より悪かった。 「おはようございます、閣下」 「ああ」 「眠れませんでしたか」 「少しは」 「少し、という言い方は、だいたい眠れていない人の言い方です」 「君こそ、人の顔色を批評できる顔ではない」 「私はもともとこの顔です」 「私の顔が怖いと言われた仕返しか」 「まだ根に持っていらしたのですか」 「根に持つほどではない」 「根に持つ方は、皆そう仰います」 リュシアンは言い返そうとして、やめた。 朝から口論する体力がなかったのかもしれない。 セレスティアも、今日は少しだけ口を慎もうと思った。 思っただけだった。 「ノエルは?」 「まだ起きていない」 「本当に?」 「使用人からは、そう報告を受けた」 「ご自分で確認は?」 「扉の前までは行った」 「中へは?」 「寝ている子供の部屋へ、勝手に入るわけにはいかないだろう」 思ったより常識があった。 少しだけ感心する。 だが、すぐに別の問題へ気づいた。 「マルタは?」 「隣室だ」 「では、マルタは確認しているのでしょうか」 「しているはずだ」 「はず、ですか」 リュシアンの眉間に皺が寄る。 「また始まったな」 「始めたくて始めているのではありません」 「なら、なぜ必ず私の神経を逆撫でする言い方を選ぶ」 「癖です」 「直せ」 「検討中です」 「昨夜から一歩も進んでいない」 「検討は長引くものです」 リュシアンは深く息を吐き、東棟へ引き返した。 セレスティアも続く。 ノエルの部屋の前に着くと、扉のそばに控えていた侍女が慌てて頭を下げた。 「お嬢様は?」 リュシアンが尋ねる。 「まだ、お休みでいらっしゃいます」 「マルタは」 「乳母殿は先ほど、中へ」 その言葉が終わる前に、室内から低い声が漏れた。 「ノエル様。いい加減になさいませ」 マルタの声だった。 リュシアンの顔が変わる。 セレスティアは扉を叩いた。 「ノエル。入ってもいい?」 返事はない。 代わりに、マルタの声がした。 「お支度中でございます。少々お待ちくださいませ」 「ノエル本人の返事を待っています」 中が静かになった。 数秒後、小さな声が聞こえた。 「……はい」 セレスティアは扉を開けた。 部屋の中は、昨日のうちに少しだけ整えられていた。 寝台の位置は変わっている。 窓の鍵も修理済みらしい。 だが、その中央で、ノエルは寝間着のまま立っていた。 頬が赤い。 泣いたのではない。 こすった跡だ。 マルタは手に櫛を持っていた。 床には、髪飾りのリボンが落ちている。 「何がありました」 リュシアンの声は低かった。 マルタは即座に頭を下げる。 「申し訳ございません。ノエル様がお支度を嫌がられまして」 「嫌がった?」 「はい。昨夜は環境が変わり、お気持ちが不安定なのでしょう。髪を結うのを嫌がり、朝食にも行かないと」 「ノエル」 セレスティアは少女へ視線を向けた。 「本当?」 ノエルはすぐに頷きかけた。 だが、セレスティアが黙って待っていると、その頷きが途中で止まる。 少女は小さな手で寝間着の袖を握った。 「髪は、痛かったです」 マルタの表情が固まった。 「ノエル様」 「痛いと言いました」 「少しも我慢できないほどではございませんでした」 「痛いと言った時点で、止めるべきです」 セレスティアはマルタを見た。 「髪は、あとで私が結います」 「エルフォード様が?」 「ええ」 「恐れながら、ノエル様の髪質は絡まりやすく、慣れない方では」 「慣れます」 マルタの指が櫛を握り締めた。 「奥様は、私にお任せくださいました」 「奥様はもういらっしゃいません」 言った瞬間、部屋の空気が凍った。 ノエルの顔が強張る。 リュシアンもこちらを見た。 言葉は正しい。 だが、正しいからといって、言ってよい形だったとは限らない。 セレスティアは唇を結んだ。 謝罪が、喉に引っかかる。 マルタは目を伏せた。 勝った、というような顔ではない。 むしろ、痛いところを刺された人間の顔だった。 「……その通りでございます」 静かな声だった。 「奥様は、もういらっしゃいません。だからこそ、せめて私が、奥様のなさっていた通りにノエル様をお支えしなければならないのです」 それは、それなりに本音なのかもしれなかった。 マルタはただの悪い乳母ではない。 ミレイユの面影を守ろうとしている。 ただ、その守り方が、今生きているノエルの息を詰まらせている。 そういう人間は厄介だ。 悪意だけなら切り捨てやすい。 善意が混じると、途端に切り口が鈍る。 「マルタ」 リュシアンが言った。 「今日は下がれ」 「ですが」 「命令だ」 マルタの顔がわずかに歪んだ。 すぐに整える。 「かしこまりました」 櫛を卓上に置き、一礼して出ていく。 扉が閉まると、ノエルの体から力が抜けた。 座り込むかと思ったが、そうはしなかった。 小さな身体で、必死に立っている。 「怒られますか」 ノエルが尋ねた。 「誰に?」 セレスティアが聞き返す。 「みんなに」 「髪を結うのを嫌がったこと?」 「はい」 「痛かったのでしょう?」 「はい」 「なら、怒りません」 「でも、髪を結わないと、だらしないです」 リュシアンが困ったように言った。 「今日は休めばいい」 「駄目です」 ノエルが即座に首を振る。 「お母さまが、髪をほどいたまま人前に出るのは、泣きながら道を歩くのと同じくらい恥ずかしいって」 「妹がそんなことを?」 リュシアンが眉をひそめる。 「言いそうですね」 セレスティアは思わず言った。 ノエルがこちらを見る。 「お母さまは、昔からそういう言い方が好きでした」 「セレスティアさまも、言われたの?」 「ええ。リボンが曲がっているだけで、人生まで曲がって見えると言われました」 ノエルが少し笑った。 「ひどい」 「本当にひどいわ」 「お母さま、自分のリボンもよく曲がっていました」 「ええ。だから私が直していました」 「セレスティアさまが?」 「そう」 そこで会話が止まった。 ノエルの瞳が、少しだけ柔らかくなる。 セレスティアも懐かしさに引きずられかけた。 ミレイユの髪は細く、絡まりやすかった。 少し強く梳くと大袈裟に悲鳴を上げ、セレスティアの膝へ頭を乗せて文句を言った。 『ティアの手は冷たいのに、髪を触るときだけ優しいわね』 まただ。 思い出が、勝手に美しい場所だけを選んで蘇る。 やめてほしい。 あの女は自分から婚約者を奪った。 傷つけた。 こちらが泣かないことを知っていて、泣けない場所へ追い込んだ。 それなのに、なぜこんな小さな仕草ばかり思い出してしまうのか。 「セレスティアさま?」 ノエルの声で我に返る。 「何でもありません」 「怖い顔でした」 セレスティアは一瞬、返事に困った。 子供は本当に遠慮がない。 「そうね。少し、嫌なことを思い出していました」 「お母さまのこと?」 「ええ」 「わたしが、お母さまに似ているから?」 リュシアンが口を開きかけた。 セレスティアはそれを手で制した。 ここで「そんなことはない」と言うのは簡単だ。 けれど、ノエルは聞いている。 嘘かどうかではなく、自分が見えているものを、大人も見ているのかを。 「似ているところがあります」 セレスティアは答えた。 ノエルの顔がこわばる。 「嫌?」 「嫌だと思う瞬間もあります」 「セレスティア」 リュシアンが低く咎めた。 セレスティアはノエルから目を逸らさなかった。 「でも、あなたはお母様ではありません」 「本当に?」 「本当です」 「嫌なところが似ていたら?」 「そのときは、あなたの嫌なところとして考えます。お母様の代わりに嫌いにはしません」 ノエルは眉を寄せた。 「難しいです」 「ええ。とても難しいわ」 「大人でも?」 「大人でも」 「セレスティアさまでも?」 「私だから、特に難しいかもしれない」 ノエルは少し考えた。 「じゃあ、わたしも難しくていい?」 「何が?」 「お母さまが好きだけど、嫌いなところもあって、怖かったけど、会いたくて、でも会ったらまた怒られるかもしれないと思うの」 セレスティアの喉が詰まる。 五歳の子供が、こんな言葉を持っていることが悲しかった。 持たざるを得なかったことが、腹立たしかった。 「いいわ」 「いいの?」 「全部、本当でいい」 ノエルは小さく頷いた。 その目の端に涙が滲む。 しかし、こぼれる前に瞬きをして消してしまった。 泣けない子だ。 泣かない子ではなく、泣けない子。 その差が、胸を重くする。 「髪を結っても?」 セレスティアが尋ねる。 ノエルは迷ったあと、頷いた。 「痛かったら言って」 「少しなら我慢できます」 「我慢しなくていい痛みもあります」 「どれが?」 「今から覚えましょう」 セレスティアは卓上の櫛を取った。 象牙の高価な櫛だったが、歯が少し細かすぎる。絡まりやすい子供の髪には向かない。 「別の櫛が必要です」 セレスティアが言うと、リュシアンがすぐに扉へ向かった。 「買わせる」 「今すぐ買いに走らせなくても結構です。今日は指でほぐします」 「必要なものは揃える」 「閣下」 「何だ」 「子供に必要なものは、値段が高いものとは限りません」 リュシアンは少し黙った。 「昨日の玩具の話をまだ根に持っているのか」 「根に持つほどではありません」 「その言い方は、根に持っている者の言い方だと君が言った」 「よく覚えていらっしゃいますね」 「腹の立つ言葉は覚えやすい」 ノエルが鏡越しに二人を見ている。 その目が、昨日より少しだけ明るい。 セレスティアはノエルの髪へ指を通した。 細く、柔らかい。 ミレイユの髪とは違う。 似ていると思えば似ているが、触れれば違う。 ノエルはノエルだ。 そう自分に言い聞かせる。 「痛い?」 「いいえ」 「ここは?」 「少し」 「では止めます」 「止めるの?」 「痛いと言われたので」 「怒らない?」 「怒りません」 何度も同じ確認をする。 面倒だとは思わなかった。 いや、少し思った。 でも、その面倒さは必要な面倒さだった。 人間は面倒だ。 子供はもっと面倒だ。 傷ついた子供は、さらに面倒だ。 けれど、その面倒さを引き受けない大人が多すぎた結果、今のノエルがいる。 セレスティアは不器用に髪を二つに分け、青いリボンで結んだ。 少し左右の高さが違う。 ノエルが鏡を見つめる。 「変?」 「少しだけ」 リュシアンが後ろから言った。 セレスティアは彼を睨む。 「正直すぎます」 「君にだけは言われたくない」 「ここは、よく似合っていると言うところでしょう」 「なら、君が言えばいい」 「私は少し曲がっていると思っています」 「似た者同士ではないか」 ノエルが鏡の前で、ついに小さく笑った。 「少し曲がっているけど、痛くありません」 「では、それを今日の正解にしましょう」 セレスティアが言うと、ノエルはリボンに触れた。 「今日の正解」 「ええ。正解は毎日違います」 「そんなの、ずるいです」 「人生はずるいものです」 「また五歳に何を教えている」 リュシアンが呆れる。 セレスティアは肩をすくめた。 「現実です」 「もう少し柔らかく包め」 「閣下が包んでください」 「私にできると思うか」 「できないと思います」 「即答するな」 朝食室へ向かう頃には、ノエルの足取りは少しだけ軽くなっていた。 ただし、食堂の前まで来ると止まった。 扉の向こうから食器の音が聞こえる。 使用人たちの気配。 マルタもいるかもしれない。 ノエルは鞄を持っていない。 それだけで、心細そうだった。 「パンは部屋にあります」 セレスティアが言う。 ノエルが驚いてこちらを見る。 「分かるの?」 「何となく」 「持ってきてもいい?」 リュシアンがすぐに言った。 「必要ない。食事はここで――」 「持ってきましょう」 セレスティアが遮った。 リュシアンが振り向く。 「なぜだ」 「安心材料です」 「食堂へ硬いパンを持ち込ませるのか」 「ええ」 「公爵家の朝食に?」 「ええ」 「君は本当に、私の家の秩序を壊すのが好きだな」 「壊れたら困るほど繊細な秩序なら、子供一人で崩れます」 リュシアンは黙った。 負けたという顔ではない。 考えている顔だった。 そして、家令へ命じた。 「ノエルの部屋から、昨夜のパンを持ってこい。布に包んだままだ」 家令は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頭を下げた。 「かしこまりました」 ノエルはリュシアンを見上げた。 「いいの?」 「いい」 「お行儀が悪くない?」 「今日は特別だ」 「明日は?」 リュシアンが詰まる。 セレスティアは助け舟を出した。 「明日は明日、考えましょう」 「毎日、正解が違うから?」 「そう」 ノエルは、納得したような、していないような顔で頷いた。 朝食室には、焼きたてのパン、野菜のスープ、卵料理、果物、蜂蜜、温かな牛乳が用意されていた。 豪華すぎる。 五歳の子供の朝食というより、客を迎えるための食卓だった。 ノエルは席につくと、まず皿の数を見た。 次に使用人の数を見る。 最後に、マルタが壁際に控えていることに気づき、肩を固くした。 セレスティアはリュシアンを見る。 リュシアンもマルタに気づいていた。 「マルタ。今日の朝食は下がれ」 「私はノエル様のお世話を」 「必要ない」 「ですが」 「必要ないと言った」 マルタは一礼した。 「かしこまりました」 その声には従順さがあった。 だが、退室する瞬間、ノエルへ向けた視線があった。 短い。 ほんの一瞬。 しかし、ノエルの指が膝の上でぎゅっと握られた。 セレスティアは見た。 リュシアンも見ただろうか。 分からない。 食事が始まった。 いや、始まるはずだった。 ノエルは椅子に座ったまま、スープへ手をつけない。 「食べないのか」 リュシアンが聞く。 ノエルはすぐにスプーンを取った。 「食べます」 その動きが早すぎる。 スープを掬い、口へ運ぶ。 熱かったのだろう。 微かに眉が動いた。 だが、飲み込んだ。 「熱いなら、待っていい」 セレスティアが言う。 「大丈夫です」 「熱かったでしょう」 「少しだけ」 「少しだけ、は熱いときの言い方?」 ノエルは困ったようにスプーンを見た。 「……熱かったです」 「では、冷ましましょう」 セレスティアは自分の皿を少し手前へ引き、スープをかき混ぜた。 ノエルも真似る。 リュシアンは黙って見ている。 「閣下も熱いなら冷ましてください」 「私は子供ではない」 「大人も舌を火傷します」 「しない」 「なぜ断言できるのですか」 「経験上だ」 「熱いものを平気な顔で飲むことを、大人の証明にしないほうがよろしいかと」 ノエルがスプーンを持ったまま、じっとリュシアンを見る。 「伯父さま、熱くないの?」 「熱くない」 「本当に?」 「……少し熱い」 「冷ましたほうがいいです」 リュシアンの顔が、ひどく複雑になった。 セレスティアは笑いそうになり、紅茶で誤魔化した。 リュシアンは無言でスープをかき混ぜる。 それを見たノエルが、少しだけ誇らしげな顔をした。 朝食はゆっくり進んだ。 ノエルは一口食べるたび、周囲の顔色を見る。 多く食べすぎていないか。 遅すぎないか。 こぼしていないか。 それらを確認するように。 家令が持ってきた硬いパンは、ノエルの皿の脇に置かれた。 彼女はそれを何度も見たが、手はつけなかった。 お守りのようなものなのだろう。 食べるためではなく、そこにあることが大事なのだ。 「卵は嫌い?」 セレスティアが尋ねる。 「嫌いではありません」 「好き?」 「分かりません」 「分からない?」 「好きと言うと、たくさん出ます。嫌いと言うと、もう出ません」 リュシアンの手が止まった。 「だから、分からないと言うのか」 「はい」 「では、本当は?」 ノエルは皿の卵を見つめた。 「今日は、少しだけ食べたいです」 「今日は?」 「昨日は食べたくありませんでした。でも、今日は黄色がきれいなので」 セレスティアは頷いた。 「では、少しだけ」 「残してもいい?」 「いいわ」 「怒らない?」 「怒らない」 「もったいないって?」 「食べられる分を知る練習です」 「練習」 「ええ。食事も練習です」 ノエルは小さく切った卵を口へ運んだ。 食べた。 もう一口。 それから、首を振った。 「今日は、ここまでです」 「分かりました」 セレスティアが答えると、ノエルは少し驚いた顔をした。 止めてもよいと思っていなかったのかもしれない。 リュシアンが小声で言った。 「君は、子供の扱いに慣れているのか」 「いいえ」 「では、なぜ分かる」 「分かっていません。観察しているだけです」 「観察」 「人は、帳簿より面倒ですから」 「帳簿と比べるな」 「帳簿は裏切りません」 「数字を誤魔化す人間はいる」 「だから人間が面倒なのです」 リュシアンは少しだけ目を細めた。 「君は本当に、人間を信用していないのだな」 「閣下ほどではありません」 「私は信用する人間を選ぶだけだ」 「私は選んだ人間に裏切られました」 言ってしまった。 食堂の空気が静かになる。 ノエルがスプーンを置いた。 リュシアンも動きを止める。 セレスティアは自分の失言に気づき、視線を伏せた。 朝食の席で言うことではない。 ノエルの前で言うことでもない。 けれど、言葉は戻らない。 「お母さま?」 ノエルが小さく聞いた。 セレスティアは誤魔化さなかった。 「ええ」 「お父さまも?」 「ええ」 「二人も?」 「そうね。二人も」 ノエルは考え込んだ。 「二人に裏切られたら、二倍痛い?」 子供らしい数え方だった。 だが、妙に的を射ている。 「どうかしら。二倍というより、どちらを痛がればいいか分からなくなりました」 「お母さまを怒ると、お父さまが残る。お父さまを怒ると、お母さまが残る?」 「そう」 「だから、両方から逃げたの?」 リュシアンがノエルを止めようとした。 セレスティアは首を振る。 「そうです」 ノエルはじっと見つめてくる。 その目が、ミレイユに似ていた。 責めているのではない。 ただ知りたいときの目。 真っ直ぐで、遠慮がなく、相手の傷口を覗き込むような目。 セレスティアの胸に、強い拒絶感が走った。 やめて。 その目で見ないで。 あなたはミレイユではない。 分かっている。 分かっているのに、身体が先に反応した。 セレスティアは椅子から立ち上がった。 食器が小さく鳴る。 「失礼します」 声が硬かった。 自分でも分かるほど。 ノエルの顔が、さっと青ざめる。 「ごめんなさい」 少女が言った。 「違うの」 セレスティアはすぐに言った。 だが、遅かった。 ノエルはもう、椅子から半分立ちかけている。 「もう聞きません。ごめんなさい。怒らせるつもりはありませんでした。朝食も食べます。残しません」 「ノエル」 「ごめんなさい」 その姿を見て、セレスティアは自分の喉を誰かに絞められたような気がした。 ミレイユに似ていると思った。 嫌だと思った。 その拒絶が、子供へ伝わった。 ああ。 最悪だ。 セレスティアは椅子の横で膝を折った。 食堂の床に膝をつく伯爵令嬢など、行儀としては褒められたものではない。 けれど、今は高さを合わせたかった。 「ノエル。今のは、あなたが悪いのではありません」 「でも」 「私が、勝手に昔のことを思い出しました」 「お母さまに似ていたから?」 逃げたい。 そう思った。 昨日から何度も逃げたいと思っている。 けれど七日間は逃げないと決めた。 セレスティアは手を膝の上で握りしめた。 「そうです」 ノエルの目が揺れる。 「あなたの目が、お母様に似ていました。それで、私は嫌な気持ちになりました」 リュシアンが息を呑む。 食堂の使用人たちも、完全に固まっているだろう。 だが、もう止めなかった。 「でも、それはあなたのせいではありません。私がまだ、お母様のことを整理できていないからです」 「整理?」 「心の中が散らかったままなの」 「散らかっていると、怒る?」 「怒ることもあります。逃げることもあります。さっきみたいに、急に立ち上がることも」 「わたしは、どうしたらいい?」 その問いが痛かった。 大人の感情の世話まで、子供がしようとしている。 「あなたは何もしなくていい」 「でも、また嫌な目をしたら?」 「そのときは、私が自分で何とかします」 「できる?」 「……練習します」 ノエルは少しだけ唇を尖らせた。 「大人も練習ばかりです」 「そうね。大人も、意外とできないことばかりなの」 「伯父さまも?」 リュシアンへ視線が向く。 彼は少しだけ困った顔をした。 「私もだ」 「何ができないの?」 「……謝ることが下手だ」 セレスティアは思わず彼を見た。 リュシアンは目を逸らす。 かなり勇気を出した発言だったらしい。 ノエルは真面目に頷いた。 「分かります」 「分かるのか」 「伯父さまは、謝る前に怖い顔をすると思います」 リュシアンが無言になる。 セレスティアはとうとう少し笑ってしまった。 「セレスティアさまは?」 ノエルが聞く。 「私?」 「セレスティアさまは、何が下手?」 山ほどある。 人を許すこと。 怒りを手放すこと。 傷ついたと認めること。 助けを求めること。 寂しいと言うこと。 けれど、五歳の子供へすべてを並べる必要はない。 「嫌だと言うのが下手です」 「言っているのに?」 「本当に嫌なことほど、黙って逃げます」 「逃げたら、戻ってくる?」 セレスティアは答えに詰まった。 六年前は戻らなかった。 ミレイユのもとへも、アルベルトのもとへも。 手紙すら読まなかった。 「今度は、戻れるようにします」 「約束?」 約束。 簡単にしてはいけない言葉だ。 特に、この子には。 破られた約束を、いくつも抱えている顔をしている。 「努力します」 ノエルは不満そうだった。 「それは、逃げる言い方です」 リュシアンが少しだけ口元を押さえた。 セレスティアは彼を睨む。 「笑いましたか」 「いや」 「笑いましたね」 「少しだけだ」 「正直ですね」 「練習中だ」 ノエルが二人を見比べる。 そして、少し考えてから言った。 「では、努力でもいいです」 許された。 五歳の子供に。 情けない話だが、セレスティアは少しだけ救われた気がした。 朝食は再開された。 ノエルは卵を半分残し、スープを三分の二飲み、パンは焼きたてのものを少し食べた。 硬いパンには最後まで手をつけなかったが、食堂を出るときに布包みごと持っていきたいと言った。 リュシアンは何か言いかけたが、セレスティアが見ただけで黙った。 学習が早い。 その後、ノエルは侍女に案内され、庭の見える小部屋で休むことになった。 マルタはその場にいない。 代わりに、昨夜からノエルに優しく声をかけていた若い侍女が付き添う。 リュシアンが手配したらしい。 「人事は早いのですね」 セレスティアが言うと、リュシアンは不機嫌そうに答えた。 「褒めているのか」 「半分は」 「残り半分は何だ」 「昨日までなぜできなかったのかと思っています」 「君は本当に一言多い」 「今のは半言です」 「数え方がおかしい」 二人は書斎へ向かった。 朝食後。 窓の鍵は直っている。 ノエルは食事をした。 昨夜決めた条件は、一応満たされた。 次は、手紙だ。 書斎には大きな机と、本棚が並んでいる。 リュシアンの仕事部屋らしく、余計な装飾は少ない。 ただ、机の隅に置かれた赤い薔薇が目に入った。 一輪だけ。 花瓶も急ごしらえらしく、飾り気のない透明な硝子だった。 セレスティアは立ち止まった。 「それは?」 「今朝、庭師に探させた」 「白い花ばかりでは?」 「温室に少し残っていた」 「ミレイユのためですか」 「……分からない」 リュシアンは机の前へ立ったまま、薔薇を見ないようにしている。 「妹のためか、私の罪悪感のためか、分からない」 その正直さが、また腹立たしかった。 悪役でいてくれればいいのに。 死んだ妹を見捨てた冷たい兄のままでいてくれれば、こちらも責めやすい。 セレスティアは椅子に座った。 「どちらでも、花は赤いです」 リュシアンがこちらを見る。 「慰めているのか」 「事実です」 「君の慰めは、なぜいつも帳簿の注釈みたいなのだ」 「慣れていませんので」 「何に?」 「慰めに」 リュシアンは何か言いかけたが、やめた。 代わりに、懐から小さな鍵を出した。 昨夜、鞄の底から見つかったものだ。 机に置く。 セレスティアは封筒を取り出した。 蝋燭の火に透かすような真似はしなかった。 これ以上、姑息な逃げ方をしたくなかった。 「開けます」 「ああ」 リュシアンは向かいに座る。 近い。 この男と二人きりで、ミレイユの手紙を読む。 六年前の自分が知ったら、鼻で笑うだろう。 いや、泣くかもしれない。 セレスティアは封蝋へペーパーナイフを差し込んだ。 手が止まる。 たかが紙だ。 そう思う。 けれど、紙は時々、人を殺す。 命ではなく、逃げ道を。 「セレスティア」 リュシアンが静かに呼んだ。 「逃げるなとは言っていない」 「昨日は言いました」 「今日は言わない」 「なぜ」 「君が逃げたい顔をしているからだ」 セレスティアは顔を上げた。 「それを見て、責めないのですか」 「責めたら、読むのか」 「読むかもしれません」 「それは読ませたことになる」 「閣下らしくありませんね」 「私にも、反省くらいある」 「朝から成長が著しいことで」 「茶化すな」 リュシアンの声には、怒りよりも疲れがあった。 「私も、怖い」 セレスティアは黙った。 「妹が何を書いたのか知りたい。だが、知れば、知らなかった自分を許せなくなるかもしれない」 「すでに許していないのでは?」 「まだ足りないのだろうな」 彼は自嘲のように言った。 「人は、自分を罰する材料を、わざわざ探すことがある」 その言葉は、セレスティアにも刺さった。 自分も同じだ。 ミレイユの手紙を読みたいのは、真実を知りたいからだけではない。 自分が手紙を読まなかったことを、もっと後悔するためかもしれない。 自分の傷が本物だったと確認するためかもしれない。 あるいは、死んだ親友をもう一度憎む理由が欲しいのかもしれない。 「嫌な人間ですね、私たちは」 「今さらだ」 「否定してください」 「できない」 「本当に謝るのが下手ですね」 「君も慰めが下手だ」 二人はしばらく黙った。 それから、セレスティアは封を切った。 中には一枚の便箋が入っていた。 ミレイユの字。 懐かしく、腹立たしく、愛おしく、見たくなかった字。 セレスティアは息を吸った。 読み上げるつもりはなかった。 しかし、一行目を見た瞬間、声が勝手に出た。 「ティアへ」 昔の呼び名だった。 胸が痛む。 「この手紙をあなたが読んでいるなら、私はたぶん、とても格好悪い死に方をしたのだと思います」 リュシアンの手が机の上で強張った。 セレスティアは続けた。 「まず最初に書いておきます。私は、あなたに謝るためだけにこの手紙を書いているわけではありません」 ミレイユらしい。 本当に、腹立たしいほどミレイユらしい。 「私があなたからアルベルトを奪ったのは、あなたを守るためでした——なんて、綺麗な嘘を書けたらよかったのだけれど」 セレスティアの喉が詰まった。 リュシアンが息を呑む。 便箋の文字は、そこで一度大きく乱れていた。 まるで、書いた本人も迷ったように。 「違います。 私は、あなたが羨ましかった。 あなたの婚約者が欲しかった。 あなたが持っているものを、私も持てるのだと証明したかった。 そして最低なことに、あなたが傷つく顔を、少し見てみたいと思ったことがあります」 書斎の空気が、重く沈んだ。 セレスティアは便箋を握る指に力を込めた。 怒りが湧くと思った。 実際、湧いた。 最低。 馬鹿。 なぜそんなことを書くの。 なぜ死んでから言うの。 生きているときに言いなさいよ。 そう叫びたかった。 けれど同時に、別の感情もあった。 嘘をつかなかったのだ。 ミレイユは最後まで自分を美化しなかった。 それが救いなのか、さらに残酷なのか、分からなかった。 「続きは」 リュシアンが掠れた声で言う。 セレスティアは便箋へ視線を戻す。 「でも、あなたが泣いたら、私はたぶん耐えられませんでした」 そこで文字が滲んでいる。 涙の跡か、インクの染みかは分からない。 「だから、あなたが泣かずに去ったとき、私は安心しました。 同時に、絶望しました。 あなたは私を責める価値もないと思ったのだと、勝手に決めつけました」 セレスティアの呼吸が浅くなる。 あの日、自分は泣かなかった。 泣けば負けだと思った。 泣けば、ミレイユに自分の傷を見せることになる。 それだけは嫌だった。 その意地が、相手には別の意味で届いていた。 馬鹿みたいだ。 本当に、馬鹿みたいだ。 「ティア。 あなたがこの手紙を読んでいるなら、ノエルの鞄を開けたのでしょう。 あの子は、きっとパンを隠していたはずです。 笑わないで。 私も最初は笑ってしまったの。 でも、笑ってはいけなかった。 あの子は、私よりずっと早く、この家の食卓が安全ではないことに気づいていました」 リュシアンが立ち上がりかけた。 セレスティアは読み続ける。 「アルベルトの友人を名乗る男が、薬を持ってくるようになりました。 飲むと眠れます。 眠れるけれど、夢と現実の境が分からなくなります。 私はノエルに怒鳴りました。 怒鳴ったことを、朝になって覚えていない日もありました」 「ミレイユ……」 リュシアンが低く呟いた。 「ノエルは、私の薬を隠しました。 私はその手を叩きました。 叩いた瞬間、あの子が私を見る目が、あなたに似ていると思いました。 責めているのではなく、ただ悲しそうな目。 私は、それが怖くて、また怒りました」 セレスティアは目を閉じたくなった。 今朝の自分と同じだ。 ノエルの目にミレイユを見て、嫌だと思った自分。 ミレイユはノエルの目にセレスティアを見て、怖いと思った。 母親と親友が、それぞれ勝手に別の女を子供へ重ねる。 ノエル自身はどこにいるのか。 「あなたにこの手紙を渡すのは、あなたが優しいからではありません。 あなたが冷たいからです。 冷たいあなたなら、ノエルを可哀想な子として甘やかすだけでは終わらないと思いました。 あの子が嘘をつけば、嘘だと言ってくれる。 あの子が母親を嫌いだと言えば、嫌っていいと言ってくれる。 あの子が私を忘れたいと言えば、忘れてもいいと言ってくれる。 そんなひどいことを言える人を、私はあなたしか知りません」 セレスティアは笑った。 笑うしかなかった。 涙は出なかった。 代わりに、乾いた笑いが喉の奥で震えた。 「褒められているのかしら」 「たぶん」 リュシアンが言った。 「妹なりには」 「最低の褒め言葉ですね」 「ああ」 セレスティアは続きを読んだ。 「お兄様には、ノエルを守る力があります。 でも、あの人は正しすぎる。 正しさで人を殴る人です。 ティア。あなたもそうです。 だから二人で殴り合ってください。 その間に、ノエルが息をする隙間ができるかもしれません」 リュシアンが片手で顔を覆った。 「妹は、私を何だと思っていたんだ」 「正しさで人を殴る人でしょう」 「君もだ」 「ええ。どうやら」 便箋の最後に近づく。 セレスティアの指は震えていた。 「鞄に入れた鍵は、私の化粧箱の鍵です。 レイモンド邸の寝室、鏡台の奥にあります。 そこに、アルベルトの帳簿の写しと、薬を持ってきた男の名前を書いた紙を隠しました。 もし私が事故で死んだと言われたなら、信じないで。 けれど、アルベルトだけを責めないで。 あの人は弱い人です。 弱い人は、時々、悪い人より残酷です」 そこで、手紙は終わりに向かっていた。 「最後に。 許してとは書きません。 あなたに許されたい気持ちはあります。 でも、許してもらえなかったとき、死んだあとまであなたを恨みそうな自分がいて、嫌になります。 だから、許さなくていい。 ただ、ノエルを見るとき、私だけを見ないで。 あの子は、私ではありません。 あなたでもありません。 ノエルです。 それだけは、私が母親として一番間違えたことだから」 セレスティアは読めなくなった。 最後の一行が滲む。 泣いているのかと思った。 違う。 手紙のインクが、もともと滲んでいるのだ。 そう思いたかった。 しかし、机の上へ落ちた雫は、便箋にはなかったものだった。 セレスティアは慌てて拭おうとした。 リュシアンが布を差し出す。 受け取りたくない。 けれど、受け取った。 「泣くのか」 「泣いていません」 「今さらその嘘は無理だ」 「では、目から水が出ています」 「子供か」 「大人です」 「大人でも分からないことが増えるのだったな」 セレスティアは布で目元を押さえた。 「意地が悪いですね」 「君ほどではない」 しばらく、二人とも黙っていた。 赤い薔薇が机の隅で静かに咲いている。 ミレイユの手紙。 小さな鍵。 ノエルの朝食。 硬いパン。 全部が一つの線で繋がり始めている。 もう、ただの婚約者略奪の話ではない。 ただの親友への恨みでもない。 セレスティアは便箋を畳んだ。 「レイモンド邸へ行く必要があります」 「ああ」 「監査院に封鎖されているのでしょう」 「私が許可を取る」 「早いほうがいい」 「今日中に動く」 リュシアンの声は、仕事の声に戻っていた。 けれど、完全ではない。 どこかに兄の顔が残っている。 「その前に」 セレスティアは立ち上がった。 「ノエルに会います」 「手紙の内容を話すのか」 「全部は話しません」 「隠すのか」 「今のあの子に背負わせるには重すぎます」 「昨日は、隠せば守れると思うなと言った」 「今日の正解は違います」 リュシアンはわずかに目を細めた。 「便利な言葉を覚えたな」 「ノエルに教わりました」 「君が教えたのだろう」 「そうでしたか?」 書斎を出る前、セレスティアは赤い薔薇を見た。 「その花、ノエルの部屋に一輪持っていっても?」 「妹のための花だ」 「では、なおさら」 リュシアンは少し考え、花瓶から一輪抜いた。 不器用な手つきだった。 茎の棘に指を刺す。 「痛っ」 思わず漏れた声に、セレスティアは瞬きをした。 「閣下も痛いと言えるのですね」 「今のは不可抗力だ」 「ノエルに聞かせたい言葉です」 「やめろ」 「痛かったら、痛いと言ってよいと」 「やめろと言っている」 リュシアンの指から、小さな血が滲んでいた。 赤い薔薇。 赤い血。 白い屋敷の中で、その色だけがひどく生きて見えた。 セレスティアは布を差し出した。 今度はリュシアンが、嫌そうにしながらも受け取る。 「借りる」 「返さなくて結構です」 「血がついたからか」 「洗うのが面倒なので」 「本当に君は」 「何です」 「……いや」 リュシアンは小さく息を吐いた。 「ありがとう」 謝罪よりは得意らしい。 セレスティアは少しだけ目を逸らした。 「どういたしまして」 ノエルは庭の見える小部屋で、硬いパンを膝に置いたまま、布兎と向かい合っていた。 食べてはいない。 ただ、そばに置いている。 セレスティアが赤い薔薇を持って入ると、少女は目を丸くした。 「赤い花」 「お母様が好きだった花です」 「知りませんでした」 「そう」 セレスティアは胸が痛んだ。 ノエルは母親の好きな花も知らない。 それなのに、母親の恐怖や怒りばかり覚えている。 なんて不公平なのだろう。 「セレスティアさまは、知っていたの?」 「ええ」 「お母さまのこと、嫌いなのに?」 「嫌いでも、覚えていることはあります」 「好きだったから?」 セレスティアは赤い薔薇を小さな花瓶に挿した。 窓辺に置く。 朝の光を受けて、花びらが柔らかく透けた。 「そうね」 その言葉は、思ったより自然に出た。 「好きだったから、覚えているのだと思います」 ノエルは薔薇を見つめた。 「わたしも、お母さまの好きなものを知りたいです」 「少しずつ話します」 「嫌なことも?」 「あなたが知りたいなら」 「全部?」 「全部は、まだ難しいわ」 「大人になったら?」 「大人になっても、難しいことはあります」 「またそれ」 ノエルが少しだけ笑った。 その笑い方は、ミレイユに似ていなかった。 ノエルだけの笑い方だった。 セレスティアは胸の中で、小さく息を吐いた。 大丈夫。 毎回うまくいくわけではない。 また似ていると思って拒みたくなる日もあるだろう。 でも今は、この子をこの子として見られている。 それで十分だ。 「ノエル」 「はい」 「今日、あなたのお母様の家へ行きます」 少女の表情が変わる。 「わたしも?」 「今日は、私と公爵閣下だけで」 「どうして」 「調べものがあるから」 「お母さまのこと?」 「ええ」 「悪いこと?」 セレスティアはすぐに答えなかった。 ノエルはそれを見て、理解したように俯く。 だから、セレスティアは言った。 「良いことも、悪いことも」 「お母さまは、悪い人だったの?」 「悪いことをした人です」 「悪い人とは違うの?」 「違うこともあります。同じこともあります」 「難しい」 「ええ」 「でも、知りたいです」 「分かりました」 ノエルは膝の上の硬いパンを撫でた。 「お母さま、赤い薔薇が好きだったのね」 「ええ」 「わたしは、黄色い花が好きです」 初めて聞く好みだった。 セレスティアは微笑んだ。 「覚えておきます」 「忘れませんか」 「忘れません」 「本当に?」 「ええ。黄色い花」 ノエルは少しだけ考え、付け加えた。 「あと、卵の黄色も、少し好きです」 「それも覚えておきます」 「少しだけです」 「ええ。少しだけ」 その会話を、扉の外でリュシアンが聞いていた。 セレスティアが振り向くと、彼は気まずそうに視線を逸らす。 「盗み聞きですか」 「入るタイミングを失った」 「正直ですね」 「練習中だ」 ノエルが笑った。 今度は声を出して。 小さな、すぐ消えてしまう笑い声だった。 それでも、部屋の中の空気が少しだけ変わった。 赤い薔薇。 黄色い花。 硬いパン。 死んだ母親の手紙。 どれも綺麗なものばかりではない。 むしろ、面倒で、汚くて、痛くて、整理できないものばかりだ。 けれど、家族になるとは、きっとそういうものを一つずつ同じ部屋へ置いていくことなのだろう。 セレスティアはまだ、ノエルを引き取ると決めたわけではない。 リュシアンを信用したわけでもない。 ミレイユを許したわけなど、当然ない。 それでも、今日の朝食でノエルが卵を少し食べたこと。 黄色い花が好きだと言ったこと。 その二つだけは、忘れないようにしようと思った。 昼前。 リュシアンが財務監査院からレイモンド邸立ち入りの許可を取った。 セレスティアはミレイユの手紙を懐に入れ、小さな鍵をリュシアンから受け取る。 リュシアンは渡す直前まで、鍵を放さなかった。 「何ですか」 「君が勝手に一人で行かないか確認している」 「行きません」 「本当に?」 「努力します」 「それは逃げる言い方だと、ノエルが言っていた」 「では、行きません」 リュシアンはようやく鍵を渡した。 「セレスティア」 「はい」 「妹の部屋で何を見つけても」 「はい」 「倒れるなよ」 「倒れそうになったら?」 「……支える」 妙に真面目な顔で言うので、セレスティアは少し困った。 「ありがとうございます」 「礼を言われるほどのことではない」 「では取り消します」 「なぜそうなる」 「照れていらっしゃるようなので」 「君は本当に」 「一言多い?」 「ああ」 「本日分は、まだ残っています」 「使い切らなくていい」 そんな馬鹿げたやり取りをしながら、二人は馬車へ向かった。 背後の窓から、ノエルが見ている。 腕には布兎。 窓辺には赤い薔薇。 少女は小さく手を振った。 セレスティアも振り返す。 するとノエルは一瞬驚いたあと、もう一度、少し大きく手を振った。 馬車が動き出す。 レイモンド邸へ。 ミレイユが死ぬ前に隠したものがある場所へ。 セレスティアは膝の上で手を握った。 今度こそ、逃げない。 そう思う。 思ったそばから、胸の奥で別の声がした。 本当に? セレスティアは窓の外を見た。 王都の街並みが流れていく。 手紙を読む前の自分には、もう戻れない。 それが怖かった。 けれど、怖いと思えるうちは、まだ生きている。 死者は怖がらない。 死者は悔やまない。 死者は謝らない。 その全部を、生きている人間だけが引き受ける。 セレスティアは小さく息を吸った。 「ミレイユ」 声には出さず、心の中で呼ぶ。 「あなたの隠したもの、見に行くわ」 答えはない。 けれど、どこかであの女が、少し困ったように笑った気がした。噂というものは、扉を叩かない。 窓も開けない。 招いてもいないのに、隙間から入り込む。 香水の匂い。 市場の立ち話。 仕立屋の試着室。 礼儀正しい手紙の追伸。 使用人の親戚が勤める別邸の台所。 そういう場所を渡り歩いて、いつの間にか屋敷の廊下に落ちている。 セレスティアは、それをよく知っていた。 六年前もそうだった。 ミレイユがアルベルトと婚約したとき、誰かが正面からセレスティアへ言いに来たわけではない。 気の毒に。 でも、あの子なら仕方ないわ。 セレスティア様はお堅いから。 ミレイユ様は華やかでいらっしゃるもの。 そういう言葉が、直接ではなく、斜め後ろから聞こえてきた。 聞こえないふりをした。 背筋を伸ばした。 それで済んだことにした。 けれど今回は、済ませてはいけない。 セレスティアが書斎で報告書を確認していると、リュシアンが低く言った。「噂の出どころが三つに絞られた」「早いですね」「家令が怒っている」「家令殿が?」「ああ。顔には出ないが、かなり怒っている」 セレスティアは一瞬だけ想像した。 あの無表情の家令が怒る姿。 おそらく、普段より紅茶の温度が一度高くなるとか、書類の角が異様に揃うとか、そういう方向だろう。 怖い。 静かな人の怒りは、時々かなり怖い。「一つ目は、レイモンド伯爵夫人の弁務官周辺」 リュシアンは書類を机へ置いた。「二つ目は、サルヴァ商会
録音魔石を再生する日、セレスティアは朝から喉が渇いていた。 水を飲んでも、紅茶を飲んでも、少しも潤った気がしない。 喉が渇いているのではなく、体の内側が乾いているのだと思った。 昨日、薬草保管庫から見つかったもの。 ミレイユの手紙。 薬の処方記録。 ノエルに渡さないで、と書かれた封筒。 そして、録音魔石。 透明な小さな石は、今はリュシアンの書斎の机の上に置かれている。 何も知らない人間が見れば、ただの装飾品のように見えるだろう。 光を受けて、静かに輝いている。 だが、その中に声が入っている。 誰の声か。 ミレイユか。 アルベルトか。 レイモンド伯爵夫人か。 それとも、ジル・サルヴァか。 分からない。 分からないことは怖い。 けれど、聞かないままにするほうが、もっと怖い。「顔が冷たいな」 書斎に入るなり、リュシアンが言った。 セレスティアは目を上げる。「冷たい顔とは?」「怒っている顔だ」「怒っています」「怖いか」「怖いです」「両方か」「両方です」 そう答えるのに、もう抵抗がなくなっている。 怒っている。 怖い。 その両方を同時に持つことを、ノエルから学んだのかもしれない。 リュシアンは机の前に立っていた。 隣には財務監査院の監査官。 記録官もいる。 女性薬師も呼ばれていた。
朝、ノエルは青いリボンを何度も触っていた。 布兎の耳に結び直されたリボン。 昨日までと同じ場所にある。 だが、同じではない。 一度ほどかれ、端の縫い目を開かれ、中に隠されていた鍵の片割れを取り出された。 セレスティアが丁寧に縫い直し、結び直したが、布にはわずかに跡が残っている。 ノエルはその跡を指先でなぞった。 怒っているようにも見える。 悲しんでいるようにも見える。 確かめているようにも見える。「痛そうですか」 ノエルが尋ねた。 朝食の前だった。 いつもの小部屋。 机の上には今の箱。 箱は淡い黄色の布袋に入っている。 青い紐は、三人で決めた面倒な結び方できちんと結ばれていた。 パンはその下で丸くなっている。 昨日、箱を食べなかったので、ノエルに「少しえらい」と言われていた。「布兎が?」 セレスティアが聞き返すと、ノエルは頷いた。「リボンのところ」 セレスティアは、布兎の耳をそっと見た。 針を入れた跡は小さい。 だが、ノエルには大きく見えるのだろう。「少し、跡はあります」「痛い?」「痛かったかは分からないわ。でも、大切に直しました」 ノエルは布兎を抱きしめた。「布兎は、怒っていますか」「どうかしら」「わたしなら、怒ります」「そうね」「勝手に秘密を入れられて、あとで開けられて」「ええ」「布兎も、箱に紙を入れたほうがいいですか」
レイモンド邸へ向かう馬車の中は、妙に静かだった。 窓の外では、王都の街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。 朝の通りにはパン屋の匂いがあり、馬車の車輪が石畳を叩く音があり、子供を連れた母親が露店の前で値切る声がある。 世界は、こちらの事情など知らずに普通に動いている。 ノエルの箱に知らない紙が入れられたことも。 赤い薔薇の花瓶から、ミレイユの紙片と鍵の片割れが出てきたことも。 その紙片に「赤を捨てないで」と書かれていたことも。 街の人々にとっては、何の関係もない。 それが少し羨ましく、少し腹立たしかった。「顔が怖いぞ」 向かいに座るリュシアンが言った。 セレスティアは窓から目を離す。「閣下に言われたくありません」「私は元からだ」「私も最近、元からということにしておきます」「便利な言葉を覚えたな」「あなたから学びました」 リュシアンは少しだけ眉を動かした。 馬車の中には、他に財務監査院の監査官が一人同乗している。 彼はずっと書類に目を落としているが、たぶん聞こえている。 最近、この人は公爵家周辺の会話に慣れてきたらしく、余計な反応をしない。 それはそれで、少し申し訳ない。「緊張しているのか」 リュシアンが尋ねた。 セレスティアは一瞬だけ迷い、正直に答えた。「しています」「温室が怖いか」「温室そのものではなく、ミレイユの隠し方が怖いのです」「隠し方?」「彼女は、昔から秘密を遊びにするところがありました」 セレスティアは膝の上の手を見下ろした。
箱が怖くなる、ということがある。 普通なら、そんなことは考えない。 箱はただの箱だ。 木でできていて、蓋があって、中にものを入れる。 それだけのものだ。 けれどノエルにとって、今の箱はただの箱ではなかった。 自分の言葉を入れる場所だった。 大人が泣いても慰めなくていい、と書いた紙。 今日は会わない、と決めた紙。 自分は数字ではない、と書いた紙。 お父様が怖い。でも心配でもある、と書いた紙。 その全部が入っている箱だった。 そこへ、知らない誰かの言葉が勝手に入り込んだ。『お母さまみたいになりたくないなら、赤い花を捨てて』 その紙は、もう箱にはない。 セレスティアが預かり、証拠用の封筒に入れた。 封筒には、ノエル自身がこう書いた。『わたしの言葉ではない紙』 それでも、箱の中に一度入ってしまったという事実は消えない。 ノエルは朝から、箱の蓋を開けられずにいた。 手を伸ばす。 触れる。 でも、開けない。 その横で、パンが箱の角を嗅いでいた。「パン」 ノエルが小さく呼ぶ。 パンは顔を上げる。「食べないで」 パンは尻尾を振った。 まったく分かっていない。 その分からなさに、ノエルは少しだけ笑った。 けれど笑いはすぐ消えた。「パンはいいですね」 ぽつりと言う。「何が?」 セレスティアは、少し離れた椅子に座ったまま聞いた。 近
共同後見人になった最初の朝、セレスティアは眠れなかった。 正確には、少し眠った。 椅子に座ったまま、机に肘をつき、額を手の甲へ乗せた姿勢で、ほんの一刻ほど意識が落ちた。 目が覚めたときには首が痛く、右手の指先にはインクがついていた。 机の上には、昨夜見つかった手紙が置かれている。『ノエルに会わせてくれ。 このままでは、あの子の母親と同じことになる』 何度読んでも、意味が定まらなかった。 脅し。 警告。 父親の焦り。 あるいは、誰かに書かされた文章。 アルベルトの字であることは間違いなさそうだった。 しかし、彼は監視下にいる。 自由に公爵邸の門番へ手紙を渡せる状態ではない。 ならば、誰がこれを届けたのか。 侍女長エレナか。 ジル・サルヴァか。 レイモンド伯爵夫人の手の者か。 それとも、公爵邸の中にまだ誰かいるのか。 考えれば考えるほど、屋敷の壁が薄くなる気がした。 昨日、ノエルは「今日は安心してもいい」と箱に書いた。 小犬の名前はパンになった。 共同後見が認められた。 その夜に、この手紙だ。 大人の世界は本当に、子供が安心した瞬間を狙って壊しに来る。 最低だった。「起きているか」 扉の向こうから、リュシアンの声がした。 いつもより低い。 この男も眠っていないのだろう。「起きています」「入る」







